心と体

2009年6月22日 (月)

人生の目的

人生はそれ自体が目的であり、意味なのではありませんか?
人生の目的を追い求めるとき、それは実際は逃避しているのであって、あるがままの生を理解しているのではないのです。
あるがままの生を理解すれば、自分がもっているものに完全に満足するのです。
(J.クリシュナムルティ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「割り切り」とは魂の弱さである。

                (亀井勝一郎)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月23日 (土)

勝つことと負けること

スポーツの祭典(オリンピック)という
擬似世界大戦も終盤を迎えつつある。
ま、国が連合したりしないし
報復的な戦後処理もないから(自国民からは報復を受ける?)
もちろん、本物の戦争よりは全然いい。

自己の可能性にかけて他者と共に競うのは美しい。
結果としての勝ち負けは
建前としてでなく、本質的にどちらも美しい。

しかし、今回もまた
勝ち組教育の洗脳を受けた我々は
この美しき個人を
キラ星と負け犬に分離する。
本来勝つことと負けることは同じものの両面なのに。

個人を必要以上に勝ちたいと思わせる
他者の思惑が世界中に蔓延している。
最後まで自分を諦めないという無垢の自信と
英雄を夢見るような傲慢さを伴った自信とは
雲泥の差がある。

彼は僕で、僕は彼なのに
エラーした選手を罵る我が身のなんたる醜さよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 2日 (日)

座右銘

言いたいことは山ほどあれど
本当に言うべきことは少ない。
なので、言葉を発することの重さに耐えかねて
ますます気軽に書けなくなっている。
でも、これはと思って腑に落ちたことだけは
臆せず書こうと思う。

僕は長年座右の銘がなかった。
それは考えが浅くて考えから抜けることができなかったためだ。
しかし30代に入ったくらいから
徐々に自分の道が見え始め
このところは「一燈照隅 万燈照国」で落ち着いている。
すばらしい思想であると思う。

今年に入って
思索に耽ることが多くなったと思ったら
新しい言葉に出会った。
そして自分に新たなちょっと長めの座右銘が加わった。
(出典自体は古いので多くの方がご存知かもしれません)
(こういう出会いの瞬間ってウルッときますよね)
せっかくなのでご披露する。

故 岡本太郎氏の言葉である。

「専門であろうとなかろうと
 体当たりで生き抜くことが人生の極意であるはずだ。
 本当の人間は、みんな透明な目をもった
 猛烈なシロウトなのである。
 自分の専門に対しても」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年5月24日 (木)

我を忘れる

お久しぶりです。

なんか書くという行為が面倒くさくなってしまっていた。

ちょっと実践モードに入っていた気もする。

特別変ったことはしていないが

今日を懸命に生きるということが

最も大切であるという事だけは、実感としてわかってきた。

そんな中、改めて気付いた事がある。

やはり真の幸福は我を忘れた先にのみ存在するということだ。

我を忘れるのだから、幸福すらももはや追求してはいない。

不幸の始まりの原理の真逆である。

現実に即して考えれば

我を忘れると言う事は、その間の時間即ち変化をよく覚えてないというようなことでもあり

つまりは果てしない成果に向ってワープしているようなものなのだ。

取り残された側からみればどうしてそんな事ができたのかと思うし

ワープした側もこれといって人に自慢する苦労を重ねたわけでもない。

むしろ淡々と続けていただけだったりする。

自分などないということを理性的に考えると

考える事すらバカバカしくなってくる。

しかし心で感じだすと、これほど救われる言葉もない。

水鳥が羽ばたく露の一滴一滴にも月影がやどっているように(道元より)

我々は既に天の意志とともに暮らしている。

自分がこの世のために何をしに生まれてきたか。

求める価値のあるものは、それだけである。

ガッツポーズの幸せなど、浅い浅い^^。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年1月10日 (水)

横着

着物で食事をしていると袖の袂に大きな制限を受ける。

ブッフェスタイルの時など片手だけを伸ばして目標の料理に近づこうなど言語道断。

袂は途中のスープやらソースやらで美しく彩られてしまう。

必ずどこかに手持ちの皿を置いて、その手で袂を押さえながら確保しにいく。

左手右手を駆使して料理にがっつくことなど考えられない。

自然、一つひとつの動作が確実に行われ美しくなる。

要らない物まで取って食べるということも減り、下品になどなりようがない。

取り放題という無条件下であればこそ、秩序ある動きは意義が大きい。

人間にとって最も醜いことの一つに「横着」があると思う。

ゴミのポイ捨てなど横着の極みだろう。

横着な人は本当にしょっちゅう見かけるが、実に下品だ。

美しい日本にするなら、横着をまず抹殺しなければならないだろう。

着物は放っておくとどんどん横着になりかねない人間を

制御する機能を有しているのではなかろうか。

もっと型と秩序の重要性を認識しなければ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年1月 7日 (日)

節目

遅ればせながら

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

いつの頃からか正月はすっかり連休の一つくらいの

立場に追いやられてしまった。

さすがに初詣に出かける人は多いが

凧も上げなければ、羽根もつかないし、独楽も回さない。

暮れに餅をつくなんて古い会社などにかろうじて残っているだけだろうか。

格好など惨憺たるもので

着物などこれだけブームと言われていても本当に少ない。

初詣で一番多いのは恐らくグラウンドコートだろう。

(ここはラグビー場か?)

正月行事に対する姿勢のあり様はその一年全ての姿勢を代表する。

一年の計は元旦にありとはよく言ったものだ。

要するにけじめがないのである。

けじめの無さが戦後民主主義教育の最たる特徴だろう。

けじめがないから人間としての規律ができず

組織に規律の文化が生まれず

結果として人間が成長するシステムが育たないのだと思う。

教育は教え方の理屈を論じ合っても無駄だろう。

基本的なことだけでいいから

小さい時から規律ある生活を営み規律を重んじる人間に導く。

(親がやるだけでいい。私のような育ちの悪い大人にはしんどいけど^^;)

これだけで、少年少女たちは放っておいても

自分の頭で正しく考える正しい大人に育っていくだろう。

子供に大人の考えを教え込もうなんて神をも畏れぬ仕業なのである。

だから、バカな親や教師ほどそうしようとする。

バカを蓄積していった大人たちより遥かに賢い子供達は

当然猛烈に反発するという構図である。

規律ある人、規律ある文化だけが偉大な組織をつくっていくという。

国もまた然り。

正月の準備は大変である。

節目を重んじ、けじめのある生活を営んでいくのは結構労力も要る。

すべてをパスしたら明らかに楽チンだ。

しかし、しかし、それだけでは世の中としては確実に落ちていくのである。

お天道様にも逆らうことなのだから、到底勝ち目はない。

残念ながら規律なしでは人間社会は確実に堕落の方向へ移動していくのである。

そう、歴史が教えてくれている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年12月14日 (木)

来年

今日一日の区切りで生きることが理想ではあるが

凡人としてはつい来年のことを考える時節となってきた。

来年の目標は・・・

様々な話が湧き上がってきて

そのほとんどが魅力的ではあるのだが

やはりそれでも優先順位をつけることは

そのすべてに等しく全力投球する(つもりになる)より大切だ。

本当に自分が大切だと思っている事。

したいこと、しなければならない事。

純粋に本然の自性を見つめる努力をし続けなければならない。

私が長年興味を持ち続けているテーマは「教育」である。

このちょっとやそっとでは捉えきれそうにない怪物のようなテーマに対し

近年たどり着いたキーワードは“心”。

心のありようこそが人生であり

心を育てることこそが教育であるということを

いったいどれだけの親や教師や経営者が

肚からわかっていることだろう。

来年の私の最優先目標は決まった。

何せ来年4月は長男が小学校に入学するのだ。

「本当の教育とは何か」を共に考えなければならない

同志が大勢待っている。(はずだ)

これは紛れも無く与えられた機会である。

私も小学校に参入する!

小学校は子供を預ける場所ではないし

教師に任せきれる教育などありはしない。

好むと好まざると、子を持つ己は(と言うか大人というだけで)既に教育者なのだ。

むろん革命的な改革などありえない。

ただ現状を憂う大人たち総員で

日々無限の成長を邪魔するものどもから

国の宝、人類の宝たちの心を全力で守るのみである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年6月24日 (土)

生まれてきてよかった

最近の哀れな事件のニュースに接するたびに

いえ、人のささいな言動を聴くにつけ

この世で最も幸せなのは

生まれてきてよかったと思えることなんだと

心から思います。

既に充分立派な人格があるのに

それを認められず

これでもかこれでもかと

劣等感ばかりを植え付けられ

生きながらにして心を奪われる子供たち。

本当は自分が幸せのど真ん中で生きている

という最も基本的なことすら

実感できないこの子供たちは

やがて親になり

そしてまた、我が子から

最も簡単で最も最高の幸せを

再び奪っていくのでしょう。

自分を尊重できない人に

人を尊重することはできません。

他人のものさしで自分を測り続けている限り

不幸をつくりだす劣等感が

なくなることは永遠にありません。

幸福はここにあるのに

正反対の方向ばかりを向いている。

まず自分から

今ここに、この街に、この国に、この星に

生まれてきていることの幸せを

命を授かることの幸福を

今すぐちゃんと感じよう。

でなければ

唯一最愛の親に

虐待され殺されていく子供たちが

いなくなることはない。

(続)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月14日 (水)

五月病

6月なのに知人がこんなタイトルで

ブログを書いておりました。(ネタにしてごめんね)

ま、彼は大人なので

冗談半分でつけているタイトルなのですが。

で、ふと「五月病」というネーミングが無かったら

と、考えてしまいました。

病は気からとは、もはや疑いようもない真理ですが

言葉が人を病にさせることは

いとも簡単ですよね。

五月病と言い放ってしまったその時から

病人である自分の毎日が始まるわけです。

その意味では

「五月病」という病名に逃げ込んで

救われる人もいるかもしれませんね。

一種の知恵なのかな?

でも、問題を正面で迎え撃つまでは

この手の病、何回も来る(呼び寄せる?)かもです。

ま、それはともかくとして

最近ブログを読んでいて

日記で使う言葉の魔力に

気をつけて!と思うことが間々あります。

せっかく公開日記をつけているのだから

自分と一緒に読んでる人をも巻き込んで

その心を奮い立たせてワクワクするような言葉を

一杯いっぱい使っていきたいものです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧