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2006年9月

2006年9月16日 (土)

着物の自由、着物と自由。

着物が私たちの衣服の一つである以上

原則としては何をどう着ようと自由である。

しかし、では自由とは何なのか。

明らかなのは、それは束縛と対になった概念であるということ。

つまり束縛なくして自由も存在し得ないという真理を

私たちはまず知っておかなければならないと思う。

(悲しいかな)洋服に非ずという概念で存在する和服の場合

あらゆる縛りを解き放ち、自由を突き詰めれば

最後それは和服ではなくなってしまう。

「袖が邪魔、帯が面倒、着崩れる・・・」などといったいちゃもんを言う人には

「生涯トレーニングウエアかなんかでお過ごしください」

と言ってあげればいいことだ。

明らかに、和服、つまり着物が着物として存在することができるのは

一定の縛りがあってこそであり

それをどう楽しむかが現代における着物というものであり

さらには、そこにその人の器量まで試されている

とすら言えるのではないか。

現代において着物を楽しむとは

一つには

日常より着物で生活し、現代家屋の障害を掻い潜りながらも

自由に楽チンで楽しい着物生活を謳歌すること。

そしてもう一つは

フォーマルな場での約束事をあたかもゲームのルールのように捉え

その縛りの範囲内で自由な発想を楽しむこと。

大きく二つの楽しみ方があるように思う。

いわば今時の着物は大人の知的ゲーム。

流行ファッションの世界のように

何ものにも束縛されない自由があるわけでなく

かといって単にルールを守っていればいい

というような浅薄なものでもない。

楽さと美しさのバランス、相手への思いやり

場に対する配慮や敬意・・・それらの縛りの上でこそ成り立つ

わかる人にはわかる究極の仕掛け。

日本人としての自分を最大に楽しむひとときを

つくる装置と言ってもいいのではないか。

まるで子供のように「とにかく面倒なことはイヤ!」

の類一辺倒の人は、現代においては着物を楽しむという上では

自ら逆境をつくっているようなものかもしれない。

全員が着物を着ている環境下での楽しみ方と

限られた存在でしかない状況下での楽しみ方は、自ずと違ってくる。

何かにつけ不明確な決まり事を持ち出す不粋さと同様

どんなときにも昔の自由さを引き合いに出す野暮さは

同等に非難されなければならないと思う。

私はもちろん、和服が「服」と普通に呼ばれる日を

誰よりも待ち望んでいる一人ではあるが

そのためにも平成の今にふさわしい立場を見出し

温故知新、不易流行の言葉をあえて掲げ

最も長く豊かに楽しめる和装のあり方を

皆さんと一緒に見つめていきたいと願っている。

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